白薔薇の逢瀬〜Meeting you, in the holy night (with a white rose)2
長くしなやかな指先が、いたわるように望美の目の際を撫でていく。望美の瞳の涙をゆっくりぬぐうと、青年は静かに少女の背に腕を回した。それは激しい感情に支配された抱擁ではなく、ただこの少女を守り慈しみたいという思いが自然にかたちになってあらわれたものだった。抱いてみて初めてわかる線の細さに彼は目を細めた。
自分を包む腕に望美はすなおに身を任せた。寄り添う体からほのかに感じられる、おだやかであたたかみのある香り。忘れられない銀の香りが、さわやかで甘い薔薇の芳香と混じり合って望美の鼻をくすぐる。
(―――ううん、この人は銀じゃない。だって私がそうなる運命を変えたんだもの)
この人は、銀としての思い出は何も持っていない。あれほどひたむきに私を想ってくれた記憶もない。
でも、それでいい。彼が銀ではないということは、源氏に捕らわれて呪詛の種を埋め込まれ、記憶を封じられて苦しんだつらい日々を経験しなくて済んだということなのだから……。
それに彼にとっては、私はほとんど初めて会うのも同じ人間。それでも私に逢いたかったと、忘れられなかったと言ってくれる……。望美は青年の胸に顔をうずめ、夢見るように名前を呼んだ。
「重衡さん……」
「私の名を、ご存知でしたか」
「うん……」
「不思議ですね……あなたは私のことをとてもよく知っておいでのようだ。銀紗の光であまねく下界を照らす月に住まう姫ならば、すべてを見知っていてもおかしくはないのかもしれないけれど……?」
憧れの入り混じった問いかけに、望美は顔を上げた。だが貴公子然とした端整な顔に間近で見つめられ、気恥ずかしさに目をそらす。
伏せられたまつげがかすかにふるえ、どこか幼さを残しながらも女らしさのにじみでる美しい顔に、重衡は感嘆のため息をついた。
「私の気のせいでしょうか。私に向けられるあなたの瞳には、沁みるほどのなつかしさや、深い憂いまでもが見て取れる。まるでいずこかの時で、私と時を過ごしたことがあったかのように……。私の知らない私までもあなたは知っているのだと、そんなふうにさえ思えてならない。
それともそれらはみな、あなたの『銀』にまつわるものなのですか?」
望美は重衡の洞察力にどきりとしながらも、そうだよと答えたい気持ちを今は抑えた。長い話になる……。
「でも、私はあなたのことをほとんど知らない。……あちらの世界で、和議のために京に来られたあなたを見ました。あなたが『源氏の神子』と呼ばれる御方であることを知った時の私の驚きを、どのように表したらよいものか」
「重衡さん」
「時も場所も隔てられたこの地ではからずも出会い、現身のあなたをこの手に抱くことができた今こそ、あなたのことを教えてほしい。あなたが語られるものがたりを聞きたい……。
あなたはかつて私の前に突然現れ、去っていかれた。私を『銀』と呼び、未来で必ず会おうとおっしゃって。その理由も、今夜なら教えていただけますね?」
重衡の声は、遠い記憶に想いを馳せるものになった。
「あの夜から私のさだめは大きく変わったようにも思える。あなたとの縁がどのようなものであったとしても、私はそのすべてを愛しく思わずにはいられないでしょう……」
抑制された、しかし確かな熱を含ませた口調で告げると、彼は口の端に小さく笑みを浮かべた。
「いいえ、言葉よりも何よりも、本当は私はただあなたのお声に耳をかたむけていたいだけなのかもしれません。軽やかなあなたのお声は、私の耳には妙なる楽の音のごとく心地よく響くのですから。
そしてあなたのその瞳―――心の奥底までも見通すような澄んだ瞳に心奪われて、私にはもう、あなた以外の何ものも見えないのです―――」
微笑みを消し去り、重衡はひたむきな希求をこめて望美を見つめた。
「今宵一夜は、どうか私だけにそのまなざしを―――そう願うことを、お許しください……」
「私……」
家に帰らなければという思いが、ほんの少しだけ頭をかすめた。望美がいないのに気づいたら、みんな心配する。でも重衡を連れ帰ったらずいぶんな騒ぎになるだろう。望美と重衡がふたりきりで話をする機会など、当分得られなくなってしまうに違いない。望美の心の揺らぎを見透かしたように重衡は続けた。
「この夜が終わるまでいいのです。それ以上は望みません、今は。あまりに欲張りすぎては手につかんだ幸運すらもこぼれ落ちてしまうのではと、私はそれを恐れているのですから。
今宵は聖なる夜。この特別な夜に私とあなたがふたたびお逢いできた意味はきっとあるはず。ならば今宵だけは、十六夜のためらいなど忘れてくださいませんか?」
十六夜に昇る月はためらいの月……。でも、ここで彼と別れることなど望美にできるはずがない。みんながまだ起きないうちに帰れば、きっと心配をかけずに済む……。ようやく気持ちを決めた望美はうなずき、重衡は彼女の手を取ると教会の出口へと向かった。
「どこへ?」
「あなたと心行くまで語り合える場所に。ほかの誰のことも気にしないでよい場所、一番ゆっくりできる所へ―――私の部屋へお連れしたいのです」
「重衡さんの?」
「はい」
夜更けに男性の部屋に行くことに躊躇しなかったわけではないが、重衡の部屋を見てみたいという好奇心がむくむくと湧き起こった。彼がこちらでいったいどんな生活をしているのか、まだまったく聞いていない。それに、確かにそこ以上に落ち着けるところはないように思われた。この時間に開いている店はクリスマスイブを楽しもうという人々でざわめいているか、もしくは酒を出す場所だろう。高校生の身で行くには多少遠慮がある。
外に出ると雪が舞っていた。積もる雰囲気ではなかったが、一晩中灯されているはずのクリスマスのイルミネーションの輝きを受けて、ちらちらとまたたきながら地面に落ちていくさまは、儚くも美しい。
クリスマスイブのためか空きタクシーは難なくつかまり、重衡は運転手に行き先を告げた。予想通り、そう遠い場所ではなさそうだ。
だが彼は、ずっと望美の手を離そうとしない。まるで手放すと彼女が逃げてしまうのではと怖れてさえいるようだ。そんな青年が子どものように愛しく思えて、望美は手に少し力をこめた。重衡が驚いたようにこちらを見やったが、やさしい微笑を浮かべしっかりと手を握り返してきた。
やがてまだ新しい感じの高級そうなマンションの前で車を降りると、望美は導かれるまま中に足を踏み入れた。
「重衡さん、こっちではどんなふうに暮らして……?」
「いろいろと……ね。いずれゆっくりお話しいたしますよ」
エレベーターを降りて廊下を行くと、ドアに吊り下げられたクリスマスリースがちらほらと目につく。だが重衡の部屋のドアにはそれらしい飾りはなかった。
「扉に専用の飾りをつける習慣があるとは聞いたのですが、私のところにも飾った方がよいのかどうか、悩んでしまったものですから」
少々恥じるように言いながら彼はドアを開け、望美は奥の居間へと招き入れられた。部屋全体では2DKほどだろうか。数は少ないが趣味のよい家具が置かれた居間は、綺麗に片付けられていた。
「お召し物を……」
重衡に背後から手を貸されて望美は上着を脱いだ。
「ありがとう」
礼を言いながらうしろに向き直った望美を、力強い腕がふいに引き寄せた。思い詰めたような美しい目に目が合い、ふと捕らわれたように思った瞬間、唇が重ねられていた。